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(コンピューター用の)プログラムは残らない…。

どんなに努力したところでコンピューター用のプログラムは残らない…。

学生時代に自分が関わったwebサービス事業譲渡とともに消滅し、(新卒で入ったSIerで)テスト工程を担当した、とあるミドルウェアは新バージョンの発表とともに販売終章。もう旧バージョンの面影はない。

なんというか、諸行無常。時間と知識の切り売りで生活費を稼いでいるという意味では少しも頭脳労働らしいことはできていない。

ピラミッドが悠久の時を経た現在でもその偉大な姿をとどめているにもかかわらず、コンピュータープログラムは残らない…。 例え何億円の資金と数百人の人員と数年という年月がつぎ込まれていようとも………。


どんなに華々しく発表されたアプリケーションだかWebサービスも、時に数クリックだか数タップで削除され、時に静かにサービス終了の日を迎える。そこには何も残りはしない。そうなんだ。思い出話のネタになるだけだ。

そうなんだ、何も残らないんだよ、パトラッシュ………。


例えばあるソフトウェアの開発に死に物狂いで取り組んだとする。バージョン1がリリースされてめでたしめでたし、である。
しかしよく考えてみよう。その次に何が待っているのだろう?

そう、もちろんバージョン2(N+1)、である。(または販売打ち切り、そして人事異動または失業?)

ごっそりコードは書き直され、必死でこなしたテスト項目は当然やり直しだ。前回の努力は何の役にも立たない。 おそらく上司も代わっているだろう。

かつての貢献は評価されず、次から次へと手が空くたびにタスクを振られる。そこにクリエイティビティなんてものはない。
下手するとプロジェクトマネジメントすらないかもしれない。



数十年というスパンで見た時、コンピュータープログラム(ソフトウェア)というのはまるで夏の風物詩のセミみたいなもんではないだろうか。

もし自分が100歳ぐらいまで生きるとして、死の間際になって過去を振り返った時、ソフトウェア開発に費やした時間を有意義だったと思えるのだろうか。

数十年前に書かれたコードが今でも動いているという話を聞くと素晴らしいという畏怖の念と同時に、そんなもんメンテできるのかよという恐怖感に襲われるのも正直な本音である。

しかし、数年前の先人の努力が、価値ある形で存続されているというのもいいのかもしれない。せっかくの苦労が水の泡になったり、ハードディスクの肥やしになるよりはいい。その一方で、建築現場で働く日雇い労働者の方が、形に残る仕事という意味で、世の中に貢献しているのではないかと思う時がある。

落ちぶれたとしても「あのビル(or マンション)は俺が(日雇いで働いて)建てたんや」とかドヤ顔するドカタのおっさんと、仕事の成果が儚く消えて跡形も残らない月給制のエセ頭脳労働者だとしてどちらがいいのか。

なんか支離滅裂だけど、多大な労力が費やされようと、そうでなかろうと、コンピュータープログラムは残らない。

この駄文が(きっと)数年後にはブログ丸ごと消えているように。


それでも肉体労働には向いてないし、人付き合いも嫌いなんで、明日も懲りずにキーボードを叩くんですけどね。

Joel on Software

Joel on Software